スポ選で県内トップの高校に入学後、戦力外通告を受けた私が、国際線客室乗務員になった話。

バリバリの体育会系で、将来は「スポーツで食っていく」と信じて疑わなかった私が、急激な進路変更と共に「国際線CA」を目指した理由を物語形式で書いています。

以下、かなり長文であり、物語形式ということから通常の記事構成とはちょっと異なります。ご了承ください。

目安ですが、すべて読むのに20分かかります!

 

 

2005年夏、千葉インターハイ会場にて

 

『このメダルはお前が持ってろ』

 

渡された銀メダルが手のひらで光る。

 

2005年8月。

「輝きを胸に 夢をその手に 房総の夏」というスローガンのもと、開催された千葉インターハイ剣道会場にて。

 

『団体準優勝』という結果を残し、歓喜のムードに包まれた自分のチーム。

 

その片隅で、私は一人、顧問に呼び出されていた。

 

『お前もスポ薦で入った一人なんだから』

 

涙をこらえるには苦しすぎた、顧問の優しさだった。

 

これは、13歳から剣道を始め、県内トップの高校にスポーツ推薦で入学した私が、選手外通告を受け、3年後に客室乗務員になるまでの物語。

 

 

剣道と出会う。

私が剣道を始めたきっかけは、あまりにも単純だった。

仲の良い友人が、一緒に剣道部のオリエンテーション見学に行こうと誘ってくれたから、付き合いで顔を出したのだ。

 

はっきり言って、その時は剣道に興味が無かった。バドミントン部に入部する事を決めていたから。

 

しかし、物事は急展開を迎える。

オリエンテーション見学が終わった日、私はたまたま、母の影響を受けずっとファンだったチャゲアスのASKAが、剣道の有段者であることを知ったのだ。

 

『ASKA有段者なんだ…私も三段取ろう。』

 

これが剣道を始めた理由。

これ以上でもこれ以下でもない。

 

この日から、私は日本一の剣士を目指すことになる。

 

中学1年生から始めた剣道。

この3年間は、私にとって非常に華やかな3年間だった。

 

指導者に恵まれたのと、女子の先輩部員、3年生が0人、2年生が3人だけだったことから、レギュラー入りは最初から必然。

これは大きかった。

 

当然、最初は、試合の流れが分からず、テキトーに時間が経つのを待っていたが、強い選手を見る事で、段々と勝ち方の法則が見えてくる。

 

毎日の稽古は、まぁ、ラクではなかったが、メキメキ成長するのが目に見えて分かったので、正直、楽しかった。

 

それまでは、県の区大会で一勝もあげられない、無名の弱小チームだった我が校は、そのわずか1年後には、県内の2強校入りし、代表として関東大会に出場するまでに成長する。

 

高校のスポーツ推薦の声がかかったのは、私が3年生になったばかりの頃だった。

 

正直、その頃の私は、神奈川県内の剣道部員には、ある程度名前が知れ渡っていた。

 

〇〇中学校で、大将を張ってる橘田。

 

自分の肩書に、壮大な勘違いをしていた時期でもある。

 

強い剣道部員を抱える神奈川県の高校からは、おおむね全てから声がかかった。

 

ひときわ熱心に声を掛けてくれたのが、その年、神奈川でトップに躍り出て、インターハイの切符を手に入れた、私立の進学校。

 

私の母校である。

 

私立だ、ということで、父の大きな反対を受けたが、母は応援してくれた。

 

当人の私はと言うと・・・

実は、高校の剣道部を舐めて掛かっていた部分があり、『ま、大丈夫っしょ』程度の気持ちしかなかった。

 

それよりも、学年で早々に『スポ薦』での高校進学が決まり、周りが受験勉強に励む中、このピリピリ漂っている教室中の空気を、自分だけ恵まれた環境で、どう切り抜けようか、そんなことばかりを気にしていたと思う。

 

 

県内トップの私立高校に入学

高校に入学してから、今まで自分が、いかにぬるま湯のような練習環境で竹刀を振っていたのか痛感することになる。

 

次元の違う稽古のキツさだった。

これほどまでに『次元が違う』という言葉が最適な環境はそうそうないと思う。

 

一体どういう体力をつければ、こんな稽古についていけるようになるのか。。。

一つだけしか年の離れていない先輩が、平気で動いている。

 

死ぬかと思った・・・

 

これが最初の稽古を終えた感想である。

素直に死ぬかと思ったのだ。

 

私の同期として、同じくスポ薦入学してきたメンツは、すでにほとんど顔見知りだった。

中学校で成績を残してきたメンバー。

 

その中でもダントツでエリートだったのが、全国中学校剣道大会予選の決勝戦で戦ったライバル。

 

彼女はその年、誰もが認める県内最強の剣士だった。

 

私の代は、顧問が『この代で全国制覇をする』と数年前から宣言していた年のメンバーで、自分で言うのもなんだが、県内のエリートが集まっている感はあった。

 

期待されている感も最初からあった。

 

自分たちを差し置いて・・・

と言わんばかりの2年3年の先輩方の目線は、とても痛かったのを覚えている。

 

ハッキリ言って、それくらいポテンシャルの高いメンバーがそろっていたと思う。
自分も含めて。爆

 

最初から『勝つ』ことが前提のチームだった。

『負ける』という選択肢は無かったのだ。

 

私は今まで、ずっと誰かの後を追ってきた立場だったので、この環境は、初めてだった。

 

入学からしばらくは、この空気感になじめていなかったと思う。

同期のメンバーにも、多少気を遣っていたと思う。

 

ただ、これはすぐに解消された。

 

同期に気を遣っていられるほど、稽古がラクではなかったのだ。

最初の頃は、全力を尽くしても、まだまだ全然追いつけるような練習量ではなかった。

 

ただ、高校に入って気が付いたことなのだが、私は『努力』が苦手ではない学生だったらしい。

 

努力すれば報われる。
無駄な努力なんて世の中に存在しない。
だから絶対にあきらめないし、頑張り続ける。

 

私の基本モットーはこんな感じだった。

誇張なく、本気でこう思っていたし、行動も伴っていたと思う。

要は、『まじめ』だったのだ。

 

この姿勢は、先輩からすぐに可愛がられた。

 

同級生メンバーは、全員それぞれ素直な学生だったと思う。
平均的な15歳の女子(見た目は男子)だ。

が。

私はその中でも、ずば抜けて頑張り屋だったのだ。

 

私は『頑張る』ことが苦手じゃなかったことから、きつい練習も耐えた。

『きつい練習』に負けたことはなかった。

 

先輩だけでなく、同級生からも、この点は一定の評価を得ていたとも思っている。

 

・・・でも、肝心なので、きちんと言う。

この性格は、のちに、大きな問題を引き起こす。

 

 

 

アキレス腱の怪我

高校二年の秋ごろ。

丁度、一つ上の先輩の引退が目前だったころだろうか・・・

 

この日は確か、どこかの試合で負けてきたのだろう。

 

詳細はよく覚えていないが、稽古のメニューに『4分かかり』が入っていた。

 

掛かり稽古とは、剣道をやっている者ならだれでも知っているだろうが、終わりの合図があるまで、相手と相互に全力で竹刀を振り続ける、剣道の稽古の中でも一番きついメニューの一つである。

それを、4分間連続で行う、という内容だった。

 

ここに駆け引きや間合いなどは必要とされない。

ただただ、出せる全力の力を、時間いっぱいまで出し続ける、地獄のようなメニューである。

 

・・・少なくとも、12年前までは。

 

話を戻すが、実は私は、この日の稽古が始まったばかりの段階、準備運動のストレッチの段階から、左足に違和感を感じていた。

 

だが、キツイと最初から分かっている稽古に参加しないということは、ある種、メンバー内の信頼関係に大きな溝を生む大問題であり、そこを責められるのは嫌だった。

 

それに、大して痛みも無かったので、私はそのまま稽古を続行した。

そして、あの4分かかりが始まったのだ。

 

それまでもずっと、鈍くて緩い痛みが左足に走っているのは知っていた。

 

でも、稽古を辞める、という選択肢は、その時の私には無かった。

 

いつもの通り、全力で切り抜けなければならない。

自分の番だ。

 

全力で最初の一歩を踏み込む。

 

ピキ・・・

 

嫌な音がしたのを感じた。

 

鈍くも確実な痛みがあるのを知りながらも、気のせいだと振り切って、竹刀を振り続ける。

 

まだ開始から1分経っていなかった。

 

ここで辞めてはいけない・・・

 

 

バーンっ!!

 

 

本当に、体の中で破裂音が聴こえた。

強烈な痛みが、左足に襲い掛かる。

 

 

本来であれば、ここで絶対に中断すべきだった。

ドクンドクンと、左足が脈打っているのが分かっていたのだから。

 

 

・・・なのに。

 

私は竹刀を握り続けていた。

 

途中で稽古を辞めることが、最後まで頑張れない自分が、その時、どうしても許せなかった。

 

異常な痛みを抱える左足をかばいながらも、全体重を右足に預けながら、踏み込み続ける。

 

 

意識はほとんど、無かったのかもしれない。

 

 

その時・・・

 

 

パチンっ!!

 

 

と、はっきりと音が聞こえた。

三度目の正直だった。

 

さっきとは比較にならない痛みが、今度は左足、右足と、両足に流れた。

 

・・・後のことはよく覚えていない。

 

ハッキリと覚えているのは、いつもお世話になっていた整体師の先生に、

 

左足のアキレス腱が、90%以上切れている。
右足のアキレス腱も、70%以上切れている。

 

と言われた時だ。

 

 

私は、両足のアキレス腱を、同時に半分以上失った。

 

 

 

この事実は、誰よりもまず、私の両親を動揺させた。

 

アキレス腱の怪我など、スポーツ選手にとって、どれだけ致命的なことなのか、さすがの両親にもわかっていたらしい。

 

このころから、私の両親の間には、はっきりと溝が生まれていた。

 

やっぱり私立になんて行かせるべきじゃなかったと言う父。

それでも頑張ってるじゃない。と私を庇う母。

 

当の私はと言うと、やけに冷静だった。

 

先生の言う、『3か月後に復帰を目指す』という、次の目標にすでに動き出していた。

正直、けがの後の1週間は、気楽だった。

正当な理由で稽古に出られないのだから。

 

恐らく、この時の同級生も、私に同情する反面、うらやましいと思っていたに違いない(笑)

それほどまでに、稽古に出ないということは、精神的にも肉体的にもラクなのである。

 

だが、このお気楽な感情は、一週間以上は続かなかった。

 

私の入学している学校は、毎年、中学時代に結果を残してきた、強い剣士学生がスポーツ推薦で入学してくる。

 

スポーツで学校名を有名にする役目を担っているのだ。

当前といえば当然だろう。

 

だが、これは私にとって、とてつもないプレッシャーでもあった。

 

少しでも隙を見せれば、レギュラーと言うポジションは簡単に取られる。

 

結果が全ての世界で、結果が残せない選手には『価値が無い』のだ。

 

スポーツの世界とは、そういう世界。

 

どれだけ努力をしていようとも、どれだけ性格が良くても関係が無い。

 

『試合での勝利』

 

これが全てなのだ。

 

それ以外のプロセスは、決して見られることは無い。

 

だから私は、動かせない両足の代わりに、上半身の肉体改造を始めた。

不安を断ち切るために、必死に筋トレに励んだ。

 

今までのメニューをさらにキツく設定し、誰に言われるわけでもないのに、日夜、自主トレに励んだ。

努力は必ず報われると思っていたから・・・

 

この自主トレが、後に私の足を大きく引っ張ることなんて、この時はまだ微塵も予想していなかった。

 

 

地獄の始まり

 

そして、3カ月が経った。

完全では無いものの、少しづつ稽古に戻れるくらいまで、アキレス腱は回復。

 

医師のGOサインと同時に、私は道場へと走った。

 

復帰後、初めて胴着を着て、防具を付けて、竹刀を握った瞬間・・・

 

私は事の重大さを知る。

 

 

体が動かないのだ。

 

体が動かない。

 

本当に動かない。

 

これはなぜかというと、付きすぎてしまった上半身の重たい筋肉を、筋力の落ちた下半身では支えられなくなっていたから。

 

私は自主練を毎日毎日積み重ねることで、見事に、肉体改造に失敗。

致命的にバランスの悪い体になってしまっていたのだ。

 

今まで軽く打てていた技が打てない。

体が追い付かない。

脚よりも先に、手が動いてしまう。

これは剣道の選手にとって、致命的な問題。

 

・・・まさに地獄の始まりだった。

地獄の始まりとは、このことを言うんだと思う。

 

 

頭・上半身・下半身。

それぞれに脳みそが付いているんじゃないか、と錯覚するほど、思う通りに体が動かなかった。

 

復帰した以上、いまさら自分だけ特別メニューを許可してもらうことなんて、できない。

この体で、これからまた、あのキツい稽古を乗り切っていかなければならない。

 

一度ついた筋肉を、全力疾走しながら、一体どうやって落とすのか・・・

 

・・・17歳の私には、
とてもじゃないけど思いつかなかった。

 

ここからは、試合で結果を残すことはおろか、ろくな動きが出来なくなった。

稽古を乗り切るだけで精一杯だった。

 

 

今だ!今この技を打てば・・・!

と、頭で思ったことなんて、何万回もある。

 

今までなら、その思考とともに体が動いていた。

もしかしたら反射的に動けていたかもしれない。

 

・・・が、今は違う。

頭が反応した瞬間、腕が先に動こうとし、下半身が全然ついてこない。

 

だから、先のことが分かっても、全て後手後手に回った。

 

・・・これではチャンスを活かせるはずがない。

 

当時17歳の私には、かつてない、恐ろしいほどのフラストレーションが溜まっていった。

 

顧問や同級生から不甲斐なさを責められても、何も言い返せなかった。

どうすればいいのか、本当にわからなかった。

 

・・・努力は報われるはずなのに。

頑張れば結果はついてくるはずなのに。

 

ただただ空回りの毎日だった。

 

自分が良かれと思ってする行動は、全てが見事に悪い方向に進んでいった。

成績も当然残せない。

 

そして私は、いとも簡単にレギュラーから外される。

 

スポ薦のプライドなど、もう持っていられる余地などなかった。

 

周囲からは、常に憐みの目で見られた。

 

高校に入って、橘田は終わった。

橘田は高校で潰された。

 

そういう声は、もう何百回も聞いてきた。

 

スランプとか、そういうものではなかった。

それは自分が一番わかっている。

 

もっと単純な問題。

シンプルに、体が動かないのだから。

 

娘がもがき苦しむ姿を見て、母は私に隠れて泣いていた。

そのことも知っている。

 

父は私に、『お前はただの金魚の糞だろ』と暴言を吐いた。

選手の後について回る戦力外選手、こういうことを言いたかったのだろう。

 

母は私のために熱くなって、涙を流しながら父親に反論していた。

そんな母を、私は黙ってみていることしかできなかった。

申し訳ない気持ちと、不甲斐ない気持ち。

罪悪感しかなかった。

 

・・・この日から、おそらく父と母には、もう埋められない溝ができた。

 

でも私は、この時もやけに冷静だった。

人間は、どん底まで落ちると、もしかしたら、とても冷静になる生き物なのかもしれない。

 

 

父の言っていることは、悔しいけど、その通りだと思った。

言われなくても、自分が一番、そんなことは理解していた。

 

 

この時の私は、中学時代に溢れ持っていた自信など、微塵も持ち合わせていなかった。

中学時代には、かつて一度も負けたことのない選手にさえ、勝つことが出来なかった。

 

誰にも勝てる気がしなかった。

いや、それ以上に、もう戦う意志さえ、ほとんどなかった。

 

そして舞台は、冒頭のインターハイ会場に戻る。

 

夏のインターハイが終わり、引退をするその日まで、私はとうとう一度も、本来持っていた動きを出すことはできなかった。

多分途中から、出す気力も無かったんだと思う。

 

今だから言えるが、
インターハイの会場で、私は内心、チームの応援などしていなかった。爆

『負ければいいのに』とさえも、思っていなかった。

 

正直、どうでもよかったのだ。

 

ここまで来たら、選手としては完全に終わりだと思う。

自らやるスポーツではなく、完全にやらされているスポーツになっているのだから。

 

戦力外選手の精神状態が、会場で戦っている選手のパフォーマンスに本当に響くのであれば、チームが決勝で負けた理由は、私にあるのかもしれない。

 

健闘を終え、全国2位、という結果を残し、会場から帰ってきたメンバーは、なんだか違う惑星の生き物に見えた。

 

 

この時の私の感情は、『無』意外に表現方法は無いと思う。

 

とにかく早く、家に帰りたかった。

いや、家に帰りたかったわけじゃない。

一人になってしまいたかった。

 

ミーティングを終え、いよいよ解散の時が近づいてきた時、私は顧問に呼び出される。

 

そして、大会側から参加校の顧問用として進呈される銀メダルを、手渡されたのだ。

 

 

『このメダルは、お前が持っていろ』

『お前もスポ薦で入った一人だからな』

 

 

・・・頭の中で、何かがガシャンと崩れた。

 

この時の感情が、何だったのかはよく覚えていないし、いまだに何を思ったのか、よくわからない。

 

ただただ、苦しかったのは間違いない。

 

この日、最後まで一度も出なかった涙が、ここで初めて流れた。

 

でもこの涙は、インターハイで準優勝というチームの結果に喜ぶ涙でも、あと一歩で全国制覇を逃したことに対する悔し涙でもない。

 

 

『橘田』という、かつては『選手』だった自分の不甲斐なさに、情けなくなって泣いたのだ。

 

 

よくオリンピックや、大きな大会で結果を残す選手は、

『支えてくれた家族や仲間のおかげで、ここまで来れた』

と言う。

 

彼らの言っているこの感情は、嘘ではないことは知っている。

なぜなら、中学時代、私も心の底から、こう思っていたし、そう話していたから。

 

でも、選手から外れて、補欠にも入れない、文字通り、戦力外選手になって、改めて分かったことがある。

 

結果を出したのは、選手が頑張ったからなのだ。

選手が強かったから、結果が出た。

これが全てである。

 

手渡されたメダルは、正直、全然嬉しくなかったし、全然いらなかった。

 

・・・だけどこの時、私の頭の中では、もっと大きな何かが急速に起こっていた。

 

すーっと頭の中が冴えわたる感覚。

なにかが吹っ切れた、という状況だったのかもしれない。

 

『要りません』

と、のどまで込み上げていた感情的な言葉を飲み込み、その代わりに、

『ありがとうございます』

と答えた。

 

そしてこの言葉の裏側にはすでに、『決別』という、強い意志があった。

 

私はこれから全然違うフィールドで、

ここにいる大人、同級生。

全員を見返す。

 

それは静かで、そして強烈な、『闘争心』だった。

 

 

リベンジの舞台に選んだのは航空業界

この日から、私は狂ったように、将来のことを考えるために、読書に走る。

 

高校3年生の夏まで、剣道しかしていなかった女子学生だ。

今から大学受験の勉強に励んだところで、現役合格は間に合わない。

そんなに受験は甘くない。

 

コツコツと継続をしてきた人間は、強い。

それはスポーツ界でも同じだ。
(この場合は勉強だが)

 

でも、浪人をしてまで大学に行く、という選択肢も無かった。

そこまで親に迷惑はかけられない。

もしかしたら、このまま剣道部にいれば、顧問が持つコネや人脈で、大学にもスポ薦で行ける可能性は、多分あったと思う。

きっと当時、顧問だって、私のことは心配していただろう。

 

・・・だが、私はこれを真っ向から拒否した。

 

スポ薦で大学に進学することは、私にとって、ズルズルと過去の栄光にしがみついているように思えたからだ。

 

今まで散々、格好悪い姿を晒し続けてきた。

プライドなんて最初から無かったが、これ以上は限界だった。

 

私がいるべき世界は、『剣道界』ではない。

この世界では、これ以上、上に行くことはできない。

 

竹刀はもう、死ぬまで握らない。

 

意思は固かった。

 

幸い、進学校だった母校は、理系コース、文系コース、と、それぞれ大学受験にむけて、無駄な勉強はしないようなコース選択ができた高校だった。

スポーツ推薦で高校に入った学生は、基本的に『特国』(何の略なのかは知らない)と呼ばれるコースを選択する。

 

・・・というか、それしか許されない部分があった。

 

なぜなら、このコースは、ずば抜けて授業の時間が少ないのだ。

その分、練習時間に充てられる。

 

スポーツをするために高校に来ている学生は、スポーツで高校の名前を売っていくのが仕事なので、基本的に『勉強』は免除だった。

 

スポーツ推薦で高校に入学した学生は、大抵の場合、大学受験でもスポーツ推薦で『有名大学』に進学していく。

 

一般の受験生にしたら、妬ましく思えるのかもしれないが、受験生が死ぬ気で勉強している間、スポ薦組は、死ぬ気で練習しているのだ。

フェアな世界である。

 

とにかく私はこの時、このどの層にも当てはまらなかった。

 

だから、周りの大人はさぞかし心配していただろう。

 

自習時間が多く、図書館に入り浸ることが出来た私は、一気に自己啓発本や、職業選択に関する本を爆読していく。

1日に1冊のペースで読んでいった。

 

朝から晩まで剣道のことを考えてきた生活を、読書に変換するだけだったので、全然辛くなかった。

 

なにより、肉体的に『疲れた』と感じなかったので、大した負担でもなかった。

集中することには慣れていたし。

動いていなければお腹も空かないので、朝から晩まで、図書館にいた日もあった。
※急にハードな運動をパタッと辞めたのでどんどん筋力は落ち、なおかつ空腹を感じず、食事を忘れることも多々あったので、結果的に「別人?」と言われるくらい異常な減量となってしまい、「病気なのでは?」と、周囲をめちゃくちゃざわつかせていた。

 

ほどなくして、私は一つの決断をする。

『航空業界に進む』

と。

 

 

専門学校を選択

航空業界を選んだのは、剣道界とにギャップがあったから。

剣道部出身の人間は、大抵の場合、「警視庁」か「教員」の道に進む。

 

だから、そこからできるだけギャップのある世界に飛び込んだ方が、自分の周りの人間にインパクトを与えることが出来ると思ったからだ。(笑)

 

なんとも単純な思考だと思う。

 

それに、理由はもう一つあった。

 

タイミングよく、家に『航空業界の専門学校』のパンフレットが、届いていたのだ。

これは本当に、たまたまだった。

 

私は、この偶然を、必然にしようと決めた。

 

航空業界と言っても、パイロット、CA、グランドスタッフ、整備士などなど・・・色々選択肢がある。

でも私が重要視していたのは、ステータスや給料ではなく『ギャップ』のみだった。(笑)

 

だから、当時、髪の毛が2~3cmしかない、見た目男子の剣道女子が、ここでCAやグランドスタッフを選択すれば、なお良いと思った。

 

・・・でもよく調べてみると、CAは160cm身長が無いとなれないらしい。

消去法で、グランドスタッフを選択した。

 

それからは本当に早かった。

早速、目星の専門学校の学校見学を始める。

 

学校見学程度なら別に高校の制服じゃなくても良いだろう、と思い、私が着ていったのは、ミズノのジャージ上下だった。

当時の私にとって、これは正装である。

 

・・・が、これはエアライン業界では、圧倒的に場違いだったらしい。

 

学校見学で、まだ入学もしていないというのに・・・

エアラインコースを担当している先生に、『あなたは整備士向きじゃないかしら?』と、遠回しに拒否られた。

・・・と言うか、割と本気で怒られた。

 

なのにその時の私はと言うと・・・

『それもそうか。確かに整備士カッコいいよな~。整備士になろっかな~(笑)』

とか思っていた。
※発言したかもしれない

 

無知とは凶器である。

 

私は今まで、白か黒か、勝ちか負けか、の世界にいた。

だから『嫌味』というものが具体的になんなのか、心底理解していなかった。

だが、私のこの鈍感力は、後に大きな力を発揮する。

 

※ちなみにこの後、入学に際し、整備士コースを選択したつもりだったのに、エアラインコースになってしまった、という、果てしない勘違い騒動があったのだが、ここでは割愛させて頂く。

 

エアラインコース

無事、専門学校に入学し、私はエアラインコースの学生となった。

当時、グランドスタッフコースと客室乗務員コースは、1年間だけ一緒のクラスで勉強するという制度。

 

私は身長制限に引っかかっていたので、グランドスタッフを第一志望に考えていたが、授業を受けていく中で、だんだんその考え方は変わっていく。

 

CAの方が、待遇良くね?

 

これである。

給与、休暇、社員チケット。

これだけ考えても、同じ労働(グランドの方がキツイと私はこの時から思っていた)なのに、この条件の差はなんだ?

 

エアラインに何の知識も無い人間が、この差を見ると愕然とする。

同じくらい大変なのに?(てかグランドの方が仕事大変やん)

 

・・・身長が無いだけで、この差になるのか?

 

 

嫌だ。

 

・・・これが私の素直な感情だった。

 

だから私は、身長を伸ばしてCAを目指すことに決めたのだ。

 

 

アイブロー・コンシーラー。何それ、おいしいの?

私が専門学校の授業の中で、最も苦労したのが『美育』という授業である。

 

『美を育てる』

 

ばーん。

 

運動部のノリが分かる女性ならご理解いただけると思う。

 

『美育』

 

これは、

どの角度から、

どれだけ控え目に言っても、

 

『ネタ』である。

 

ここに剣道部の同級生がいたら、間違いなく、これをテーマに小一時間は笑っていられるだろう。笑。

 

 

この授業では、自分に合ったメイクの方法や髪型、などなどCA向きの『美』に関する知識や実践が行われた。

 

これがまた、本当に大変なのだ。

 

講師の先生は、

『はい、コンシーラーで○○、アイライナーは○○○○、アイブローが・・・』

 

日本語を話していないのだから。

 

なのに同じクラスの同級生は、あまりにもナチュラルに、その指示に従っていく。

 

なんだこれ。

違う惑星か何かか?

 

もう一度言う。

 

講師が発している単語は、概ね日本語ではない。

 

私は、CAどうこう以前に、化粧とは何か?から始めなくてはいけなかった。

 

『メイク』『ファッション』

 

・・・修行以外のなにものでもない。

 

だが、講師の先生は、あまりにも場違いな私に、厳しくも愛のある教育を施してくれた。

底辺学生だったので、伸び代しかなかったのだろう。

わりと講師陣や同級生からは、可愛がられた方だと思う。

 

そのおかげで、数か月後には、メイクの方法、その他、化粧道具の基本的名称は覚えた。

アルバイトでも、『メイク上手じゃん』と言われるまで、成長した。

教育のプロはスゴイし、仲間がいて良かったな~と、心から感じた出来事だ。

 

 

 

自分改造計画。

私はCA受験生として、問題だらけの生徒だった。

身長、学力、英語力、見た目。

どれも当時のままでは、不合格判定だった。

 

誰も私がCAに内定するなんて思っていなかっただろう。

 

『CAになりたい』『ねぇ、ネタなの?』

 

という会話がデフォルトだった。

 

でも、私はこの状況に、不安や憤りを感じたことは一度もない。

 

見下されたり、馬鹿にされたり、お前には無理だ、と言われることには慣れていたのもあるが・・・

 

何よりも、客室乗務員という仕事をしている人は、日本だけでも、何千人といることを知っていたから。

 

今まで、本気で『日本一』を目指してきたのだ。

日本一とは、文字通り『日本で唯一の存在』である。

 

 

・・・だが、CAは違う。

 

日本だけで毎年、100人以上の人間を採用する。

しかも、チャンスは一度ではない。

 

私は、2005年に、日本全国で2番目に強い学校の、上位5人の選手に入ることは出来なかった。

 

・・・だが、今から目指す業界は、そんなに厳しくない。

 

CA受験とは、死ぬまでに、その年の受験生の中で、単純に考えて上位100人に入れればなれるのだ。
※現在だったら上位600人程度でなれる。

 

条件さえ揃えれば、私にも勝ち目はある。

 

それに。

授業の中で、CAは『接客』のために乗務しているのではない、と知った。

CAは『接客要員』以前に、『保安要員』なのだ。

緊急時には、旅客の命を守る使命がある。

 

・・・え? 私、これ出来るじゃん。

 

全国のCA受験生の中で、私ほど運動神経が良い学生はそうそういない。

対人で戦った際に、私ほど強い学生もそうそういないだろう。

 

この学校だけで考えるなら、ハイジャックが起きたり、飛行機が堕ちた時に、生き残った旅客の命を守れる可能性が一番高い人物は、間違いなく『自分』である。

 

条件さえ揃えられれば、これは勝ち試合だ。

 

・・・私の脳内は、当時、本気でこう解釈していた。爆

 

 

単純計算で、CAになることは、スポーツで日本一を目指すよりよっぽど簡単だった。

だから、この時からすでに私には、絶対の自信があったのだ。

 

 

CA受験生は、必ずと言っていいほど「倍率」を気にする。

要は競争率だ。

 

だが、実際、そんなことは本当にどうでもよい。

その年の「合格圏内」に入れれば、内定するのだから。

 

何人受けようと、「自分が合格圏内か否か」が全て。

 

敵は同級生でも、周りの受験生でもない。

 

条件を揃えられるかどうか、自分との闘いと、面接官の攻略。

これだけ。

周囲との比較は、CA受験において、何の意味もない。

 

・・・ということで。

 

まずは現段階の問題点を拾い上げ、それに対する対策法を、一つずつ、具体的にとっていった。

 

まず身長。
身長は、ストレッチや身長を伸ばすことに特化したヨガの実践で、158cmまで伸ばした。
厳しいとはいえ、合格圏内である。

 

学力。
CA受験のSPIの過去問を見る限り、小学校・中学校程度の勉強ができればいいのではないか?と言う結論が出た。
なので、ドラえもんの参考書を買って、それを解くようにした。
SPIの問題は怖くなくなった。

 

英語力。
教師の一人が、あなたの英語力は致命的だから、このままではとても就活までに間に合わない。
留学で手っ取り早く英語を学んできなさいとアドバイスをしてくれたので、アルバイトでお金を貯めて、親にも援助してもらって、6ヵ月の語学留学をした。

TOEICのスコアは、この6ヵ月という期間で、300点台から890点までに上げ、就活期間中に950点まで伸ばした。

 

見た目。
脚の筋肉が尋常では無かったので、まず『筋肉を落とす』ところから入らなくてはいけなかった。

痩身エステに通ったり、お金は掛かったが、投資だと思い、日々、アルバイトに明け暮れた。

同時にダイエットも開始。体重は、現役の選手だったころに比べ、15kg以上痩せた。

まぁ、もともと体脂肪率自体は低かったし、筋肉質だったので、デブと言われたことは無かったが・・・

華奢になったね、と言われるようになった。

 

剣道で朝から晩まで集中して動き回っていたのは、無駄ではなかった。

これら全てをこなしても、大して疲れなかったから。

人間は、2、3日寝なくても死なない。

そんな感じで、異常なスピードで色々やっていた。

 

怪我以降の高校生時代、あれだけ長く感じていた1年間が、嘘のようだった。

時間はあっという間に過ぎていった。

 

 

 

就活

留学を終え、日本に帰ってきてからほどなくして、就活が始まった。

私は専門学校の執務室で、過去の先輩方が受けてきた航空会社の過去質問を読みながら、面接を通過している先輩の共通点を探していた。

 

就活では、不採用通知をもらうとよく、『ご縁が無かった』という表現をする。

 

私はこれを、当時から全く信じていなかった。

 

『遠回し表現』ってやつでは?と思っていた。

 

『遠回し表現』は、私が今まで触れてこなかった世界の言語である。

 

社交辞令とか、空気読む文化とか・・・

異次元の世界だ。

 

『結果』には必ず『原因』がある。

 

だから、不合格には不合格の理由がある。

当然、合格には合格の理由があるはず。

 

 

過去質問とにらめっこしているうちに、私はある、『勝ちの法則』に気がついた。

 

『具体的』

 

質問に対して、より具体的なことを言っている人が次の面接まで進む。

これである。

 

ここから私は、何もかも『具体的』に回答する練習を始めた。

自分の言っていることに対して、相手がそれ以上『・・・それは具体的にどんなことですか?』と言ってこれないような、誰が聞いていも、一発で腑に落ちる回答である。

この成果だったのか、面接官と対峙して、質問の受け答え形式で行われる選考は、ほとんどが通った。

 

私は客室乗務員を目指した理由が、高校時代の周りにいた人を見返すため『だけ』だったので、最初から『CA』に憧れなど全く抱いていなかった。

 

だが、航空会社にとって、自分がいかに役に立つ存在か、CAという体力勝負の業務を、いかに力強くこなせるポテンシャルがあるのか、そこをアピールするのは、得意になっていた。

 

 

内定通知

最終選考の結果が来る日。

私は自宅にいた。

アルバイトのシフトは入れていなかった。

なぜなら、最終面接を勝ち抜いた内定者には、電話がかかってくるからだ。

 

私は携帯を自分の近くに置いておくのが怖くて、部屋に置き去りにし、逃げるようにリビングで本を読んでいた。

緊張していることも、今日が結果発表であることも、家族の誰にも、言っていなかった。

 

午後6時を回ったあたりだと思う。

急に、それまで自分の部屋にいた弟が、ドアを開けて私に叫んだ。

彼の部屋は、私の部屋の向かいにある。

 

「ねーちゃん、ケータイ鳴ってるよー。」

 

ドキッとした。

 

慌てて階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。

恐る恐る通話ボタンを押すと、それは、最終面接会場で面接の流れを説明をしていた、人事部の男性だった。

 

『橘田さん、最終選考の結果、ぜひ、うちの会社に入社して頂きたいと思っています。』

 

大きく深呼吸をして、『はい』と答えた。

 

・・・正確には、『はい』としか言葉が出てこなかった。

 

 

『内定通知』を受けてからも、しばらくふわふわしていたと思う。

ゆっくりと部屋から出て、リビングに戻ると、丁度、母が仕事から帰ってきていた。

私はよほど、変な表情をしていたのだろう、母は、不安な顔を浮かべた。

 

『・・・・・・受かった。』

 

やっと出た言葉が、これだった。

 

母は絶叫とともに、私を強く抱きしめてくれた。

 

この日、インターハイ会場で手渡され、呪いのように机に置いてあったあの銀メダルを、ようやく棚の奥底に封印する。

 

実は、インターハイ会場でもらった銀メダルは、一度ゴミ箱の中に捨てたことがあった。

 

あの時、私に銀メダルをくれたのは、顧問なりの優しさであったことは、さすがに17歳の私にも理解できた。

私がずっと、努力し続けてきたのは、彼もよく知っていたし。

 

そんなまじめな生徒に、チームの勝利に必要な『残酷な決断』を突き付けることは、想像しただけでも辛いはずだ。

 

・・・でも、どうしてもその時、私の心は、その優しさを受け入れられなかった。

 

だから捨てた。

 

でもそのメダルを、母は拾っていたのだ。

 

だから私は、もう一度捨てる代わりに、このメダルを自分を奮い立たせるための道具として、あえて見える位置に置くことにした。

 

目標を達成した今、私にはこのメダルはもう必要ない。

 

捨てる選択肢を選んでも良かった。

だけど、捨てないでおこうと思ったのだ。

 

インターハイの日、私にはメダルに対して『劣等感』しかなかった。

でも3年後のこの日、そこにあった感情は『感謝』だったのだから。

 

 

最後に

長い長い個人的な話を、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

私の挫折は、世で言われる「挫折」の中でも大したことがないというのは、実は自分でもよく分かっています。

当時はまだ、自分のことでいっぱいいっぱいでしたが、高校を卒業してから、周りがよく見えてきました。

 

世の中には、スポーツ中の事故で下半身不随になってしまったり、それこそ、命を落としてしまったり。

もっと苦しい思いをしている選手は、たくさんいます。

その点、私は怪我をした選手の中でも、恵まれていました。

復帰できたんですから。

 

ただ、そのチャンスを活かせなかった、その程度の実力の持ち主だった。

それだけのことです。

 

ただし、その程度の人間でも、経験の中で学んだことはたくさんありました。

最後のまとめとして、私が学んだことを箇条書きにて書き出していきたいと思います。
※書き出したら止まらないので、重要なことだけ書きますね 笑

 

・結果には原因がある。

・継続は最大の「才能」

・恥をかいても、人間は死なない。

・失うものが無い人間は、確かに強い。

・全力を注ぐのは、注ぐべき時のみの方が良い。

・自分の無力さ・無能さを認めるのが、成長の第一段階。

・無駄な努力はない。無駄な努力は存在する。どちらも正解。

・凡人がいきなり天才を目指すと自爆する、まず目指すべきは秀才。

・その根源がポジティブであれネガティブであれ、「目標」がある人間が結果を出す。

 

この詳細は、別記事でも書いていけたらな、と思います。

 

私は本当に遠い世界からCA受験に臨んだ人間だったので、3年間で自分を改造するために、たくさんの試行錯誤をしてきました。

失敗もたくさんしましたし、もうね、本当、死ぬほど怒られました。(笑)

それに、専門1年生の時、現役で機長(現在進行形)をされている講師に「君はパイロット向きだよ」と、コース変更の推薦をしてもらったことがあり、軸がブレそうになったこともあります。(笑)

 

たくさんのことが3年間で起きました。

短距離で一気にCAまで駆け抜けた私でしたが、その分、努力もしましたし、幸い、プライドがゼロだったことから、たくさんの人に支えられ、たくさんの人に導いてもらえたとも思います。

 

私が「空飛ぶいちご」で書いているのは、その当時の私の試行錯誤と、現場での実情、そして採用に関わらせていただいた期間、面接官の役員たちに、シレっと聞いた内容です。爆

定期的に現役のCAの友人や、専門学校でお世話になった講師陣(現役CAやPも含む)とも連絡を取っており、現状のエアライン受験についてのあれこれも随時アップデートしています。

ブログには書けない、更に濃い情報については、メルマガでも発信していますので、CA受験生はぜひ参考にして頂けたらと^^

→CA受験対策 無料メルマガ「ビスケット通信」

 

これからも、受験生の立場・現場の考え方・面接官の本音を踏まえて、この辺を出来るだけ分かりやすく文字にしていこうと思っておりますので、今後とも「空飛ぶいちご」を応援していただけたら嬉しいです^^

 

なお、ブログ立ち上げ当初は、身バレ防止のために、実は、複数人の同級生と先輩の職歴を混ぜて(許可は取ってます 笑)記事公開していたので、内容につじつまが合わないところも多くあると思いますが、今はもう身バレをしても良いや、とようやく思えるようになったので、これからリライトで少しずつ訂正していきますね^^

 

また、パイロットの道を勧められたとき、私がその選択をしなかった理由ですが・・・

別ブログにもしていますが、その時から将来的にやりたいことが既にあったこと、社会的承認や待遇が良くとも、今その選択をする場合、膨大な労力・時間・お金がプラスでかかり、なおかつ現場ではそのすべての業務が安全業務であり、自分のミスが乗員乗客の命に直結する可能性の高い仕事を「職業」にすることには抵抗があったからです。
※CAの安全業務ミスも許されないが、きちんと資格を取得し、乗務時に安全業務にだけ150%の力を注ぎ、この点でミスをしなければ、多少(上手い人は8~9割)サービス要員として手を抜いても乗員・乗客全員死亡等の事故には繋がらない。(ただしクレームには繋がる)

社会人になってからは、当然パイロットの方々と一緒に仕事をすることも多かったので、「・・・!!!!!○○○○怒!!!!」とか思うことも確かに多くありましたが(笑)、彼らがその仕事の裏で、どれだけ苦労を乗り越えているのかはきちんと知っています。

結構な頻度で毒を吐くので(笑)、不快にさせてしまうこともあるかもしれませんが、必要な資格や勉強量も、実際に現役の方のお話を直接聞く機会が多くあったことから、パイロットという仕事については本当に尊敬しています。

そのうえでの執筆なので、大目に見てもらえたら嬉しいです(笑)

 

ということで!

大変長くなりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました^^

 

これからCA受験に臨まれるみなさん、いよいよ大手の試験が目前ですね^^

 

今、私のもとには、「周りと比べてしまって、自分に自信がない」という声が多く届きます。

 

人間であれば誰でもやってしまいがちな「他人との比較」。

でもこれには、必要な比較、無意味な比較、が存在するんですよね。

 

CA受験生に覚えていてほしいことは、CA受験においては、受験生同士の比較は意味を成さないものがほとんどである、ということ。

 

なぜならCA受験で求められるものは、「他人よりもすぐれた人物像」ではなく、「航空会社に貢献できるポテンシャルの高い人物像」だから。

 

採用枠は場合によっては変更になる、ということを念頭においてください。

航空会社は、必要な人数を採用するのではなく(まぁラインはありますけどw)、会社に必要と思われる子を採用するんです。

 

身長が168cmだからと言って、158cmの子より評価が高くなるわけでも、TOEICが950だからといって、600点の子よりも評価が高くなるわけでもありません。

剣道で日本一だろうと、戦力外選手だろうと、航空会社は「会社に貢献できる受験生」が欲しいんです。

 

CAの条件を揃えている者であれば、全員同じスタートライン。

そしてCAの条件を揃えることは、自分との闘い以外にありませんね。

その先の光る受験生になることだって、要は「企業研究」「自己分析」です。

こっちも自分との闘いなんですよ。

 

他人との比較ばかりに固執し、周りを下げて、自分を上げても評価が上がることは絶対にありません。

魂が腐るようなことはしないでください。

 

まもなく大手の採用試験が始まりますが、どうか各受験生、後悔の無い準備を!

頑張りましょうね^^

 

 

   

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